北海道札幌市 五番館(五番舘)デパートの思い出
<The memory at the GOBANKAN department store>

五番館デパートと北海道の自動車史

浅学菲才な素人のつたない文書でお恥ずかしいのですがお目通し願います。
以下の記述は下記書籍やHP等から集めた情報です。
文中にもし、どちらかにご迷惑をかける表現、間違い等があれば私が責任を負います。
五番館自動車部の歴史に興味のある方は読んで下さい。
                                        「北区のヒマおやじ」

☆参考文献「くるまと北海道〔創業期編〕」 
  昭和51年2月 社会問題研究所 発刊

☆北海道バス協会 ホームページ 
  
http://www.hokkaido-bus-kyokai.jp/jigyou.html

☆北海道交通研究会  
  
http://www2.comco.ne.jp/~kotuken/welcome.html
  北海道交通史概説(下) 
  
http://www2.comco.ne.jp/~kotuken/sonota/umeki157.htm
  〔梅木通徳氏 著〕


五番館と北海道の自動車史

北海道に初めて自動車が上陸したのは明治43年。
札幌〔北1条東2丁目〕の荒物商、諸橋熊吉氏が近所の薪炭商、高橋栄祐氏と共同で遊覧自動車営業を始めようと
移入されたドイツ製ベンツだった。
このクルマは大隈重信が所有し帝国ホテルにあった中古車だったと云う。
ただ当時は自動車に関する知識を持つ人が北海道には無く諸橋氏も高橋氏も自動車に関する知識は無かったため
旧式で故障続きのこのクルマをまともに走らせることができず〔一説ではガソリンを入手できなかったとも云われてい
る。〕観覧用に一人5銭とって展示していた。

その後、大正3年2月に北海道自動車共同組合がアメリカ製12人乗りフォードを函館に陸揚げし浦河〜沙留太間に
バス路線を開設しようと目論んだ。
同じく大正3年6月には根室の大津滝三郎氏がフォードの8人乗り自動車を購入。根室〜厚岸間を毎日一往復する
バス運行を開始した。
運賃は1人3円70銭と相当高かった。しかし歩行する難儀には替えられず常時5、6人の乗客があったと云う。
北海道における自動車の実用はこの大津氏が第一号と云われている。

翌年4月には函館の磯貝吉次郎氏がスチュードベーカーでハイヤー業を開始している。

この大正4年、札幌の百貨店五番館がフォードを1台購入した。
「5円以上の買い物をしたお客様を品物と共に自宅まで送り届けます、」と云うサービスを開始。大きな話題となった。

これにはライバル百貨店の丸井今井も負けずと4年後の大正8年にビュイックを購入し同様のサービスを開始した。
大正3年北海道庁令第21号として「自動車取締規則」が公布された。
これは後に大正8年1月に内務省令第1号「自動車取締令」によって自動車に関する取締りが全国的に統一されるこ
ととなる。

北海道に本格的に自動車が移入されるきっかけとなったのは大正7年に開催された北海道大博覧会だったと云う。
この博覧会は開道50周年を記念し、第一次世界大戦終結後の好景気の中、大変な賑わいだった。

この博覧会で東京の菊川タクシーが5台の乗用車を札幌に運び込み札幌駅 と博覧会会場である中島公園の間を
往復運転し、その便利さを宣伝して人力 車しか知らない道民を驚愕させた。この時の運賃は1人1円と相当高額
だったが物珍しさに客が付き、菊川タクシーは大儲けして東京に引き揚げた。

この時、使用された自動車の内、3台は博覧会終了後に山口門治氏が譲り受 け営業を開始したがまもなく多発する
トラブルに対処できず挫折した。
翌大正8年末には宝来自動車がこれを引き継ぎ、新たに新車3台を加えてタクシー業を開業しこれは昭和2年まで
続いた。

この当時は土の道路で今では想像できないデコボコ道で雨が降ればいたる所で埋まってしまったりサスペンション
の傷みがひどかった。冬は勿論、除雪車など無いので積雪期は運行不能。
半年間しか営業できないことからも運賃は破格に高額だったと云う。
利用客はほとんど自動車に初めて乗る人でみんな乗る前に草履を脱いでシ ートには座らずフロアに正座したと云う。

北海道でようやく自動車運送事業が興ってきた大正10年、五番館がフォード の販売権を獲得して自動車部を設立
した。
北海道での自動車ディーラー第一号である。ここに五番館は百貨店部門、農機器部門、自動車部門の3部門構成と
なった。

これは筆者「北区のヒマおやじ」の私見だが、五番館がフォードを導入したのはそもそも札幌興農園の関係から当時、
輸入のトラクターがフォード製であったことからその繋がりだったのではと考えている。もし五番館とフォード の繋がり
をご存知の方がいましたらご教示頂きたい。

さて、こうして徐々に自動車と云うものが北海道の人々の目に触れるように なる。国内を走る自動車はほとんどが
輸入車であり自動車は贅沢品として運転手付きで買い入れるか、ハイヤー、タクシーなどの営業用として購入された
ものであった。ところが皮肉にも不幸な天災を契機に自動車は急速に庶民に身近な存在となって行く。

大正12年9月1日、関東大震災が発生。死者9万人、負傷者10万人、倒壊や焼失で68万戸と云われる大惨事に
より首都東京市は壊滅的状況で鉄道軌道も破壊され移動交通手段としてバスで代替することが急務となる。
アメリカから大量に輸入した愛称「円太郎バス」が被災地を走り回る。

ここからバスは急速に全国に普及する。
日本の自動車市場の将来性に着目したフォードとゼネラルモーター〔GM〕は日本に組み立て工場を建設。たちまち
欧州車を駆逐し日本市場を支配した。

その頃の日本の自動車メーカーはわずかに補助金によって軍用トラックを作っていた。
昭和2年前述の宝来自動車の経営者葛岡喜代太郎氏が札幌に大北モータ ーを創立しGMの販売権を取ってシボ
レーの販売を開始。北海道の自動車デ ィーラー第2号である。この頃からこのフォードとGMの販売ネットが急速に
広がって行く。

昭和11年10月、五番館自動車部は北海自動車工業にフォードの販売権を引き継いだ。これはこの年に国産自動
車を育成するために自動車製造事業法が制定されトヨタが許可会社として保護されたこと、〔日産もダットの製造権
を譲り受け許可会社になっていた〕
9月にはトヨタが大衆乗用車の第一号車を発表しており翌12年に国産自動 車保護法が制定される、などの動きを
五番館自動車部が捉えていたからと云われる。

小野良治社長の決断で国産車のみの販売に踏み切った五番館は東京トヨタのサブディーラーとしてスタートを切っ
た。
社長の小野良治氏は後の札幌トヨタの社長になるがこの時の五番館自動車部の主要社員として、荒木信司〔後の
トヨタ自動車副社長〕、相茶正一〔後の札幌トヨタ社長〕、横井七之助〔後の北海道マツダ社長〕、堀田章三〔後の札
幌トヨタの常務を経て北海道三菱自動車を創立〕など、戦後の北海道の自動車産業を牽引した人たちが名を連ね
ている。

五番館自動車部は東京に仕入れ部を置き、荒木信司氏がそこに常駐した。
荒木氏は後にその手腕を買われてトヨタに引き抜かれ後年、トヨタ自販の副社長にまでなったのは伝説的な話であ
る。
こうして五番館自動車部はトヨタのメインディーラーとなり現在の札幌トヨタ自動車となるのである。

昭和16年12月日本は米英に対して宣戦を布告し太平洋戦争が始まった。
自動車は生産、配給、技術、資金、資材、労務などあらゆる面にわたり統制されることとなった。
既に昭和16年8月にアメリカは対日ガソリン禁輸を実施したため致命的な打撃を受けていた。日本はいやおう無し
に代替燃料に取り組まざるを得ず、最も実用的なものとして木炭自動車の時代を迎えた。

五番館自動車部の整備工場では昭和13〜14年ごろから旋盤機を7台入れて軍需品の生産を開始した。女工を雇
い手榴弾の信管や20mm機関砲の弾などを生産した。

悲しい歴史であるが昭和16年には自動車部品の内、75%が軍用、残りの25%が民間用の配給割り当てであった
ことからも戦争末期には設備や労力を軍需用に切り替えることが生き残る道だったと云えよう。

昭和20年3月には横井氏は第一兵器製作所を作り海軍用の照準器など を作った。今で云う関連会社と云うところ
か。ここには元川氏〔後の旭川トヨタ社長〕、柿本氏〔後のカローラ札幌社長〕徳川氏〔後の北海道マツダ常務〕など
そうそうたるメンバーがいた。

昭和20年8月、日本は無条件降伏し終戦を迎えた。
トヨタや日産をはじめとして次々に自動車メーカーが国産車を作りはじめその発展と共に10年、20年の歳月の中で
五番館自動車部の社員やそれらに関わっていた人たちがそれぞれの自動車ビジネスに邁進した。

五番館自動車部は北海道に自動車文化を普及させただけではなく自動車業界をけん引する人材を多く輩出し、現
在、北海道にある主要自動車ディーラーは系列メーカーを問わず、それぞれの会社がもつ歴史の中で五番館自動
車部と関わりをもたなかった会社ほとんど無いのである。

■■■■■ 写真1 『五番館自動車部 社屋  (フォード特約販売店 五番舘)』 ■■■■■


■■■■■ 写真2 『北海道大博覧会開催時の札幌』 ■■■■■


■■■■■ 写真3 『昭和30年頃の札幌駅前周辺』 ■■■■■


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